死者蘇生⁉故人をVRで再現するムーンショット型研究開発について思うこと

バーチャル VR

 

どうも、バーチャルブロガーの湯川です。

先日、知恵袋を見ていたら「日本の国家予算概要案のムーンショット型研究開発の中に、VRで故人を再現する計画が存在していますがどう思いますか?」という質問を見つけました。

 

え⁉死者のVR再現?

すっげー…

その時は、単純にそんな感想しか浮かびませんでした。しかしその質問では、死者をVR化で自然に会話させる開発について、「倫理的に問題がるのではないか?」と問題提起されていました。

 

確かに…クローンの時もそうだったけど、問題意識はでてきそう

 

VRで死者の再現、非常に興味がわいたので今回は「VRで死者の再現をするのは倫理的にどうなのか」ということについて思ったことを書いていきます。

 

ムーンショット型研究開発とは

 

まずは、「ムーンショット型研究開発」について簡単に解説します。

ムーンショット型研究開発とは、「実現での実現は非常に困難だが、もし実現すれば人類にとってとても大きなインパクトを与える技術」の開発のことです。

 

要は、”どこでもドア”みたいに、「実現困難だけどできたらすごいよね~」っていう技術の開発ってこと

 

”ムーンショット”とは ”Moon Shot ”のことで、かの有名なジョン・F・ケネディ大統領の「人類で初めて月(Moon)に行ってみせる」という発言が世界に大きなインパクトを与えたことが由来となっています。

 

調べたところ、ムーンショット研究費用は一つの開発チームに予算を提供するのではなく、同じテーマを研究する複数のチームに予算を提供して、その研究成果を競わせるという形となっているそうです。

 

ムーンショット型研究開発の例を出すと、先ほどの「VRで故人を再現」以外にも「台風の軌道を変えて日本に来ないようにする」とか「重症患者の一時保存」などがあります。

 

VRで故人を再現するのは倫理的にどうなの?

 

私の意見は「ケースバイケース」というほかありませんね。というのも、使い方次第で薬にも毒にもなるのがこの技術だからです。

 

皆さんが、「死んでしまった故人をVRで再現して、まるで本人がしゃべっているように再現できる」と聞いたとき、どんな光景を最初に想像しましたか?

 

私は、仮想世界で織田信長が小学生くらいの子供に自分もことについてしゃべっている、そんな近未来的な授業風景を想像しました。しかし、これはあくまで私の想像です。中には「死んでしまったあの人を…」と身近な家族や友人、恋人などを想像した人も当然いるはずです。ここで、問題が発生します。

 

死んだ人をむやみに再現するのってどうなの?

 

このムーンショット型研究開発の案として存在する「VRで故人を再現する」というこの計画では、そもそもどういった人間を故人として再現するのかはわかりません。歴史上の人物をよく故人と表現することがあるので、おそらくは先ほどもいったように、織田信長や卑弥呼のような歴史的に重要な人物などを歴史教育の効率促進のために再現するという意味かもしれません。しかし、もしこれが「再現可能なデータがある死んだ人間」として、身近な人間にも適用されるとしたら話が大きく違ってきます。(ちなみに「故人」は、「死んでしまった人」という意味です)

 

歴史的な偉人は、すでに教科書やドラマ、アニメーションなどとしてもたびたび登場しています。これを見た人で「彼はもう死んでしまっているんだよ?本人でもないのに偽って、その人のふりをするのはよくないよ」という人はいないでしょう(まあ、事実とは違ったものを見せているなら話は別ですが)。このように、歴史的に有名な人物を故人として扱い、VRでその振る舞いや言葉を再現するのには問題がないように見えます。

 

しかし、これがまったくの一般人だとしたらどうでしょうか。歴史的人物をVRで再現するのと、一般人をVRで再現するでは、明らかにその意味合い、というか、再現する目的が違ってくるのがわかると思います。

 

例えばとある一人の一般人が、今は亡き人(上記のような歴史的偉人ではないとする)をVRでなんとか再現したい、となると、それはもう「死んでしまった人にもう一度だけ会いたい」という目的があると考えていいでしょう。

 

この目的自体は、別段悪いわけでも非難されるような考えでもありません。私が運よく身近な人間の死に目に会っていないだけで、仮に今いる家族の内、一人でもいなくなってしまったとしたら必ずその人に「会いたい」と思うはずです。

 

元来、日本だけでなく世界各国で、この死者蘇生のような「死者とつながる」問題や思想は、常に考えられている永遠の課題でした。日本の「イタコ」と呼ばれる民間信仰を知ってる人はいるのではないでしょうか?イタコとは、死者を口寄せしてその人の言葉を仲介役として伝える巫女のことで、「死んだあの人ともう一度話がしたい」と願う人がこのイタコに口寄せを頼み込んでくることがあります(テレビ番組で見たことがある人もいるかも)。

 

ここではそのイタコによる口寄せが嘘が本当かという話は置いておきますが、要はこのように「死んだ人と一目でいいから話したい」と考える人は一定数いるということです。

 

ここで先ほどの話に戻りますが、VRによって再現されたその故人とは、あくまでも現実では死んでいて、VRによってどれだけ精巧に再現されてもそれは仮想のモノなのです。これからAIが発展して、人間の性格や話し方、細かな癖や表情を再現できるようになっても、存在しないものを生み出すように0から1を生み出すことはできないでしょう。

 

あくまでも仮想は仮想ということですね

 

そんな中、VRでその姿かたちと振る舞いだけを再現して、実現不可能なことへの希望を見出させるのは、倫理的にも人道的にも少し問題があるようにも考えられます。もちろん一般の人のこの話をしても「でも仮想でしょ?現実と仮想の見分けぐらいつくよ」とか「現実でもないのに虚しくなるだけ」と考える人が多そうですが、中には「それでも、もう一度会えるなら」という人も、先ほどのイタコの話でもそうでしたが、一定数はいるはずです。

 

”死”はいつの時代も人の力を離れた、ある意味では神聖な、人が手を出すべきではないものとして、慎重に扱われてきました。このことから、実際に故人に会いたいと思う人からも、それを周りから見る人からも、それが例えVRであっても「本当に故人に会いたいと願う人に偽物をあてがうこと」を問題視する人もいるはずです。

 

その考えのもとで考えうる悪い影響は、仮想世界に気を取られるあまり、自分の現実世界で生きられなくなることです(あくまでも悪い方向で)。要は、「故人のいない現実と仮想の区別がつかなくなる」というやつですね。人を殺すようなゲームやグロテスク、暴力的な内容を含むゲームコンテンツに、よくこの問題が示唆されているのを目にしますが、現実と区別できなくなると困るという意味では、VRコンテンツもこれに当てはまります。

 

もしVR世界の故人に気を取られるあまり、自分の時間を生きられなってしまったとすると、その人を想う当の故人からしても、好ましくないと思うのが普通です。

 

ちなみに私は再現されたくないです。

その体に転生できるなら話は別ですが。

 

とはいえ、おそらく「このVR技術を使って本気で、もう一度故人と会いたい」と思い、それにのめりこむような人はかなり少ないだろうというのが個人的な見解です。というのも、VRは少し説明されれば、その理屈や原理をある程度のみこむことができるからです。理屈を知ってしまえば、目の前にあるものが現実ではないことがはっきりわかるでしょうし、虚しくはなるにしろ変に魅入られる可能性は限りなく低いでしょう。要は、理屈が見えているかどうかという問題です。そういった点でいえば、イタコに関してはその力に価値を感じる人は今後も一定数いるでしょう。科学的に証明説明できていないということは、その力を完全に否定することもまた、できないということですから。

 

「故人をVRを再現」についての話に戻りますが、技術自体は非常に有用だと考えるので、「再現するのは歴史的な偉人だけ」などのように規制を設けておくのが無難でしょう。音声や動画の素材さえあれば好き勝手に誰でも再現できる、なんてことになってしまっては、VRに無知な人を狙ったおかしなことに使われかねません。

 

仮に身近な故人を再現させる時も、「その人の同意をあらかじめ得る」といった本人の意思を尊重する配慮を徹底する必要があります。ここで一番気を使うべきは、再現される側の気持ちですからね。

 

というわけで、長々と書いてきましたがまとめると、

  • 再現するのは歴史的偉人が基本(教科書やドラマに出てくるような)
  • 一般人に関しては、ルールを徹底して、故人側に立った考えを意識する

こんな感じです。

 

いつも「VR!VR!」叫んでいる私ですが、今回は予期せず「仮想を扱うからこそ、仮想と現実の区別が大事」ということを考えさせられました。なんか「光がなければ闇は生まれない、闇があるから光がある」という有名な言い回しを思い出しました。現実を追求する仮想だからこそ、現実とのすみわけが案外大切なのかもしれません。

 

当たり前のことだったかな?

では。

 

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